もう13年ほど前の話になりますが母親が乳がんだった時のお話をします。

もうだいぶ年数もたっていてそのころは看護師としても、まだまだだったので思い出しながら書いていきます。
診断
私が看護師4年目ころだったと思います。母が背中を痛がっているのが何日か続いていましたので、病院にかかるよう勧めました。
8月頃に内科の個人病院に受診していました。
丁度その日は2交代、夜勤帰りで家にいて、話があるから病院に来てほしいと呼びだされました。
そのころは精神科病棟に勤務していて、疾患に対してもたいした知識もなく呼ばれても何も感じていませんでした。
今でしたら、病院が家族を呼ぶ=いい話ではないと分かります。
病院につくと診察室に呼ばれ肝臓のCTを見せられました。
その時点ではがんとは言われませんでしたが、肝臓の中に何かたくさんあるっていう感じだったと思います。
精密検査が必要なので総合病院へ行ってくださいと紹介されました。
その日はもう受診できなかったので帰った記憶があります。
帰って看護学校時代の教科書をあさり今日見た画像から何が考えられるか探しました。
診断もされていませんがそれが「がん」であろうことは明らかでした。
教科書を見ている姿を家族に見られましたが、下を向いて涙を流したのを思い出しました。

父にも妹にもその時点では言えませんでいた。
その後総合病院へ受診しいろいろな検査をしたはずですがあまり記憶にありません。
大腸カメラをする日に夜勤明けで病院へ駆けつけ、夕方検査が終わるまで付き添い、外来で居眠りしていたのを思い出します。
色々な検査の結果、肝臓にがんがあるということでしたが、原発巣ではなく、もともとは乳がんから転移したものだと診断されました。
乳がんもすでに転移するほどの進行ですからステージⅣでした。
もともと母は乳がん検診も行っていたはずだし、どうして?って感じでした。
そこまで進行していたので母の乳がんはすでに左胸の皮膚を侵食し外にまで出てきている状態でした。
母はお風呂上りに裸でリビングに来たりするような感じだったはずなのに、思えばがんが出来てからはしっかりと隠していたようです。
母はいつから隠していたのかわかりませんが、そこまで進行するまでにはそんなに年数はたっていないと思います。
看護師の息子がいながら相談もできず、バカ息子も気づいてあげることもできず本当にそれだけは後悔しています。
きっと背中だけではなく胸も相当痛かったと思います。
治療
進行がんで転移もしていて、家族には3か月位の命ですと予後が宣告されました。
そんなこと母には言えるわけもなく、治療をがんばろうと促していくしかなかったです。
そこから治療の日々が始まりました。
そのころは全く抗がん剤にも携わっていなかったので、全く知識もありませんでいた。
乳がんの抗がん剤はハーセプチンというお薬を使っていたのを覚えています。今では抗がん剤の知識もたくさんあり副作用についてもわかっています。
そのころは、抗がん剤=吐き気、脱毛
っていう程度の知識しかなかったと思います。
治療が開始となりしばらく母は入院生活となりました。
今まで母が入院することがなかったので母のいない生活はいろいろ大変でした。
父も私も料理、洗濯など出来るタイプでしたので、何とか協力して行いました。
毎日夕食後より母の面会に行き、9時に帰ってきて寝るという生活が続きました。
何度か抗がん剤治療を続け、一応がんの進行を抑えることが出来ていました。
そのうち余命宣告の3か月は過ぎていました。
抗がん剤もある程度の効果があり、外来にて抗がん剤治療を受ける生活に代わっていきました。
抗がん剤治療には毎月10万~30万円ほどかかっていた印象があります。
たぶん、高額医療制度を利用していたと思いますが一時的な支払いはしなくてはいけないため、家計も圧迫されました。
そのころボーナスが出ると30万を父に渡していました。
余命宣告よりだいぶ長く生きることができたため、死について認識が薄れていました。
ここからの記憶はあまりないです。
徐々に母は弱っていくのを感じ、入院している期間が長くなっていきました。
医者からあまり疼痛に対してどうしていきますか?という話をされた覚えがないですが苦痛はあまり感じていない様子でしたので、見ていて辛くはなかったです。
いつの間にか点滴にモルヒネが入れられて、苦痛はなかったようですが、面会に行っても座りながら居眠りしていることが多かったように思います。
記憶がないだけかもしれませんが、がんの苦痛に対して医療用麻薬を使いますという話をされた覚えがありません。
今勤務している病院ではがんの患者さんが多く、苦痛のコントロールのために医療用麻薬が使われています。
モルヒネを使用するときには家族に話をしてからなのは、意思の疎通が難しくなる可能性があるからだと実感しています。
そして死を迎えました
丁度がんと診断、余命宣告されてから1年と2か月くらいでした。
11月の1日、朝早く病院から電話が来て、病院に向かいました。その日は父と妹と私で一日中母のそばに付き添っていました。
朝行ったときにはすでに意識もなく、呼吸も弱くなっていて、知識のない私でももう死が近いんだということを悟りました。
一日食事もしないまま夕方6時過ぎに呼吸が止まりました。
父も、妹も泣いていましたがすぐに現実に戻り、各所への連絡をしたり、ゆっくりしている時間もなかったです。
余命宣告からだいぶ日にちがたったので、家族みんな取り乱すことはなく覚悟が出来ていたんだと思います。
そのおかげで準備もある程度出来ていたため、よかったと思います。
- がんは決して他人ごとではありません。
- がんの患者さんだけじゃなく家族も闘病生活で大変
- 抗がん剤治療は延命治療、死までの準備期間となる
あまり思い出したくない生活でしたが、あの頃の生活があり今の生活は成り立っていると感じます。
あの頃にもう少し看護師としての知識があればと思いますが戻れないので、同じような看護師さんに広めていきたいです。
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